「マスク外せど、経済回らず」
「マスク外せど、経済回らず」
「経済を回さねば!」という掛け声のもと、新型コロナはめでたく(?)5類に格下げされ、学校現場でも「マスクはもういいよ」と脱マスクへの大転換がなされた。子どもたちの顔もようやく見えるようになり、「これで明るい未来がやってくる」と思ったのもつかの間、今度は感染症が四方八方から猛威を振るい始めた。
検査キットも薬もどこへ消えた?
経済を回すどころか、感染症が回りまくっているこの状況。インフルエンザ、RSウイルス、溶連菌、さらにはマイコプラズマまで次々と流行し、「いったいこれは何に感染したのだろう?」と疑問を抱いても、肝心の検査試薬はどこも品切れ。抗原検査をしようにもキットがない。「まあ、検査しなくてもどうせ治らないからいいか」と諦めの境地に至る人も増えた。
マイコプラズマの治療薬に至っては、もはや見つけたら奇跡というレベル。病院でも「薬がなくてねぇ…とりあえず様子を見てください」と言われ、患者は「そうか、医療もいよいよ自然派志向になったか」と妙に納得する始末。おまけに咳止めまで不足し、「咳エチケットを守りましょう」と言われても、そもそも止める薬がない。「マスク外しても咳が止まらないなら、むしろマスクつけてた方がいいんじゃないか?」と気づく人も少なくないが、時すでに遅し。
インフルエンザ治療は「寝るに限る」
そんな中、インフルエンザの治療薬までもが欠品状態。医師も「薬はないけど、家でゆっくり寝ててください」としか言えない有様だ。薬局では「薬がなくても寝てれば治る」という究極の自然治癒法が推奨され、患者も「これが最先端の治療法か…」と妙に納得して帰っていく。
ロングコビットで才気も滞る
一方で、ロングコビットに悩む人たちも少なくない。いつまで経っても鼻の通りが悪く、嗅覚や味覚が戻らないまま。受験生に至っては、鼻の調子が悪すぎて「目から鼻に抜ける才気」が完全にブロックされている始末。「こんな状態でどうやってひらめきを出せと言うんだ!」と嘆く声もあちらこちらから聞こえてくる。
経済を回すつもりが…
感染症が蔓延して体調不良の人が続出し、学校では欠席者が増え、会社でも「風邪を押して出社」という美徳(?)は消え去り、「無理せず休んでください」という張り紙が増えた。結果、経済は回るどころか減速。感染症対策を緩めて経済を回そうとしたはずが、肝心の労働力が足りずに回らなくなっているという笑えない事態だ。
まとめ:経済より健康を回そう
結局のところ、「経済を回すためにマスクを外そう」という発想が安易だったのかもしれない。経済を回すには、まず健康を回さなければならない──そんな当たり前のことを、いまさらながら痛感しているのが現状だ。
とはいえ、この状況を嘆いてばかりもいられない。経済が回らないなら、自宅でぐるぐると布団を巻いて休むしかない。そんなこんなで、「マスク外せど、経済回らず」の冬は、ユーモアと諦めをもって乗り切るしかないらしい。次の春、何かが回り始めることを願いながら。
恵あれど、恵なし
「恵あれど、恵なし」
新型コロナの幕開けに連日耳をつんざくように響いた「PCR!PCR!」の大合唱。お茶の間では司会者が不安を煽り、不安に駆られた視聴者は「とにかくPCRを受けなければ生き残れない」と思わされたものだ。まるで、PCRを唱えることが免疫力を高める呪文であるかのように。
あれから数年。今日のお昼、たまたまテレビをつけてみると、今度は「過去最多のインフルエンザ」の話題で盛り上がっている。司会者は、かつての緊張感をどこへやら、茶の間の笑いを取ろうと軽妙に話している。「皆さん、毒出しうがいですよ!これでスッキリ、予防バッチリ!」などと。
毒出しうがい?なるほど、これで笑いは出るが、インフルエンザは出ていかない。いやいや、真っ先に勧めるべきはマスクだろう。それも不織布マスク。次に抗原検査キットくらい紹介しても良いものだが、そんな具体策は微塵も出てこない。どうやら「笑いを出す」方が「感染を防ぐ」よりも大事らしい。
医療現場はさらに深刻だ。インフルエンザ治療の切り札である「タミフル」はあるものの、肝心のジェネリック薬「オセルタミビル」はどこへ行ったのか?政府はかつて、「ジェネリックを推進すれば医療費削減になる」と声高に勧めていたが、いざ必要なときになると市場から消えている。政府が推進したはずの薬が、現場で「品薄」として消えるこの滑稽さ。これでは「推奨」ではなく「空証」ではないか。
さらに深刻なのは、抗原検査キットが医療機関にすら行き渡らない現状だ。これでは新型コロナはおろか、インフルエンザさえも満足に診断できない。早期診断ができなければ、適切な治療も遅れ、感染拡大を防ぐどころか医療機関の負担を増やすばかりだ。
驚くべきことに、状況は新型コロナ初期の頃よりも悪化している。当時は、PCR検査や抗原検査を実施する体制を整え、早く診断できるようにしようという努力がなされていた。しかし今は、コロナとインフルエンザの同時流行が懸念されているにもかかわらず、必要な検査キットが届かず、医療機関は手詰まり状態だ。「いつでも検査できる環境を整える」と言っていた政府の言葉は、いったいどこへ消えてしまったのだろうか。
少なくとも、不織布マスクの着用をもう少し喚起するくらいはできるはずだが、不思議なことに、それだけは意固地に言わない。喚起するだけなら財源は要らないはずだ。それとも、「財源が要らない対策は増税の口実に使えないから言わない」という高度な政治的判断でもあるのだろうか。
仮に政府からマスク1枚でも送られてきたなら、安倍総理の時の「アベノマスク」と違って、今の政府ならきっと「財源が厳しい中、国民の安全を守るための英断だ」として増税の口実にされかねない。そんなことを想像すると、もはやマスク1枚すら受け取るのが怖い。マスクが手元に届く前に、「この冬を乗り切るための臨時増税」がセットで発表される未来が見えるからだ。
結局、我々にできるのは、自分たちでマスクを調達し、自分たちで手を洗い、自分たちで毒を出さないようにすることだけ。毒出しうがいより、「毒出し政府」をしてほしいものだが、それは高望みというものか。
そんなわけで、この冬も笑い話と不安を抱えながら、我々は「恵あれど、恵なし」の季節を乗り切るしかないらしい。もっとも、そんな皮肉を言っている間にも、新しい増税の影が迫っているのかもしれないが。
「心の緊張と希望の記憶—新しい土地で見つけた生きる力」
「心の緊張と希望の記憶—新しい土地で見つけた生きる力」
昨年末、仕事納めを終えた後に微熱を出して寝込んでしまった。2回インフルエンザと新型コロナの検査をやってみたが陰性で、「これはもう休むしかないな」と思い、布団にくるまってじっとしていた。こうした経験は初めてではない。クリニックを開業した当初から長く勤めてくれた師長さんも、「普段は滅多に風邪を引かないのに、年末年始になると決まって熱を出す」と言っていたことを思い出す。どうやら張り詰めていた心の緊張が解けると、身体が反応してしまうらしい。
寝込んでいる間、大学時代に読んだ清岡卓行の『アカシアの大連』を思い出した。医学部に入ったばかりの頃、ふと手に取ったこの小説の中で、敗戦の年の4月、主人公が日本から大連の実家に帰省し、緊張が解けた途端に熱を出して寝込むシーンが出てきて、思わず苦笑したことを覚えている。
物語は、戦前から戦中、そして終戦を迎える大連での生活を主人公の視点から描いている。異国の地で新しい生活を築きながらも、戦争の影が徐々に迫り、平穏な日々が崩れていく中で、主人公は自らの存在意義を深く問い続ける。そして、死を単なる終わりではなく「美しい終結」として憧れを抱く一方で、無惨に肉体と意識が滅び去る現実的な死への恐怖を抱き、両者の間で葛藤する。
主人公の死に対する考えは、「人生の終結としての美しい死」に憧れながらも、「無惨に肉体と意識が滅び去る忌避すべき死」という現実を直視することで分裂している。戦時下の厳しい現実に直面する中で、この二つの相反する死生観に揺れ動く主人公の姿は、単なるフィクションではなく、時代に生きた多くの人々の心の葛藤を象徴している。
特に印象に残ったのは、『「彼女と一緒なら、生きて行ける」という思いが、主人公の胸を膨らませ、やがて、魅惑の死をときどきはまったく忘れさせるようになっていた』という一節だった。この言葉は、主人公が「美しい死」への憧れを忘れ、「生きること」に希望を見出すきっかけとなった瞬間を象徴している。主人公は他者とのつながりを得ることで、死に惹かれる心情から解放され、未来に向かう力を得たのだ。
私自身もまた、この言葉に共感した。高校2年のときに北海道の故郷を離れ、家族と共に茨城県に移り住んだ私は、不安を抱えながら新しい生活を始めた。当時は東京の大学に進学したいという夢を持っていたが、現実はそう甘くはなく、最終的に父親の勧めもあって栃木県の自治医科大学に進学することになった。希望していた道が叶わなかった悔しさや、新天地での生活への不安が入り混じる日々の中で、自分の居場所を見つけることに必死だった。
そんな中、学生寮で出会った先輩や友人たちの存在が私にとっての「生きて行ける」という思いを支えてくれた。見知らぬ土地、未知の医学の世界での孤独感や戸惑いは、彼らとのつながりを通じて少しずつ和らいでいった。私にとっての「彼女と一緒なら、生きて行ける」という言葉は、彼らとのつながりそのものだったのだろう。
清岡卓行の主人公が、生きる希望を見出したように、私もまた、人とのつながりを通じて「生きて行ける」と思えるようになった。その思いが、不安に満ちた日々を希望に変え、私を前へと進ませてくれた。
今も、忙しい日々の中でふと立ち止まり、不安を感じることがある。「この道を進み続けていいのだろうか」と迷うこともあるが、これまでの経験を振り返ると、支え合える誰かの存在が、「生きて行ける」という確信を生んできたことを実感する。
年末になると忙しさから解放され、心の緊張がふっと解ける瞬間がある。そのたびに微熱を出して寝込むこともあるが、それは一つの「休息のサイン」なのかもしれない。緊張と弛緩を繰り返しながら、私たちは少しずつ歩みを進めていく。そしてその歩みの中で、「生きて行ける」と思えた瞬間こそが、人の心を支え、未来を切り拓く力になるのだと、清岡卓行の言葉を通して改めて感じている。
インフル来たりなば、備えも忘るべからず
昔からの言い伝えに、「インフル来たりなば、春節遠からじ」というのがある。冬の寒風に乗ってインフルエンザがやってくれば、春節が近づく合図だ、なんていう季節の風物詩的な言い回しだが、最近ではこれを聞くとつい「今度は何が来るんだ?」と身構えてしまうのが現代人の性(さが)だ。
ここ数年、ウイルス界隈は活発である。新型コロナが世界デビューを飾り、パンデミックの座を射止めたかと思えば、次はインフルエンザとの「共演」はどうだと噂され、さらには動物界の隠し玉が控えているというから油断ならない。
特に春節といえば、中国からの大移動が繰り広げられる季節の一大イベント。もしも新しいウイルスがその「VIPツアー」に便乗しようものなら、あっという間に世界巡業が始まってしまう。これが現代のグローバル社会の怖いところである。
とはいえ、ただ怯えてばかりでは健康も心も守れない。ここは一つ、賢くかつユーモアをもって対策を講じるのが現代人のたしなみだ。
まず、「ワクチンを接種すればよかろうなのだ」と豪快に構えておく。インフルエンザもコロナも、備えあれば憂いなし。次に、「マスクはもはや冬のファッションアイテム」と割り切り、あえて楽しむくらいの心意気を持つ。そして最後に、手洗いを「儀式」として捉え、手を洗うたびに「邪気払い完了」とつぶやけば、ちょっとした自己満足と清潔感が手に入る。
このように、「インフル来たりなば、春節遠からじ」という言い伝えは、単なる季節の兆しではなく、私たちに「そろそろ用心しておけよ」という優しい警告を与えてくれているのだ。賢く、面白く、少しだけ神経質に構えつつ、この冬を乗り切ろうではないか。
もし新しいウイルスが現れたとしても、こちらには長年の経験と最新の科学技術、そして何よりユーモアがあるのだ。春節を迎える頃には「今回もなんとか乗り切ったな」と笑い話にできるよう、今はしっかり備えるに限る。
欧米における精神栄養学の歴史と批判
欧米における精神栄養学の歴史と批判
精神栄養学(Nutritional Psychiatry)は、食事や栄養が精神的健康に与える影響を探る学問分野であり、その基礎は20世紀中盤の正常分子医学(Orthomolecular Medicine)に遡ります。この分野の歴史は、エイブラム・ホッファー、カール・ファイファー、ジョナサン・ライトなど、多くの先駆者たちの研究と実践によって築かれてきました。
一方で、科学的根拠の不足や実践の限界が指摘されており、精神栄養学には一定の批判も存在します。本稿では、欧米における精神栄養学の歴史、成果、そして課題について詳述します。
1. 精神栄養学の歴史:正常分子医学からの出発
正常分子医学の台頭
• 1940年代〜1950年代にかけて、ライナス・ポーリング(Linus Pauling)が提唱した正常分子医学は、体内の化学的環境を最適化することで病気を予防・治療するという概念を基盤にしています。
• 精神栄養学もこの枠組みから発展し、特定の栄養素が精神疾患に与える影響を探る研究が行われるようになりました。
エイブラム・ホッファーとハンフリー・オズモンド
• 1950年代、ホッファーとオズモンドは統合失調症の治療に高用量のナイアシン(ビタミンB3)を用いるアプローチを試みました。
• 彼らは、アドレナリンが酸化して生成されるアドレノクロムが統合失調症の発症に関与すると仮定し、ナイアシンがその毒性を中和できると考えました。
• 成果: 一部の患者で症状改善が見られ、精神疾患における栄養療法の可能性を示しました。
• 課題: アドレノクロム仮説の科学的根拠は乏しく、医学界では広く受け入れられませんでした。
カール・ファイファーの貢献
• ファイファーは、精神疾患を化学的不均衡として捉え、栄養素(特に亜鉛やビタミンB6)による補正を提案しました。
• ピロール尿症(Pyroluria)など、栄養不足が精神疾患に与える影響を研究しましたが、これも主流医学では十分な支持を得ていません。
2. 精神栄養学の拡大:多様なアプローチの登場
ミハエル・レッサーとリチャード・カニン
• ミハエル・レッサー(Michael Lesser):
• 栄養療法を活用した精神疾患の治療法を広めたパイオニア。
• 著書『Nutrition and Vitamin Therapy』で、うつ病、不安症、ADHDなどへの栄養療法の可能性を解説しました。
• 課題: 高用量栄養素の使用について、安全性や有効性のエビデンスが不足しています。
• リチャード・カニン(Richard Kanning):
• ケトジェニックダイエット(高脂肪・低糖質食)が精神疾患に与える効果を研究。
• 成果: ケトン体が神経保護作用を持つ可能性を提案。
• 課題: ダイエットの長期的安全性や全ての患者に適用可能ではない点が批判されています。
ジョナサン・ライトの役割
• 栄養生化学の専門家として、栄養素が神経伝達物質やホルモンバランスに与える影響を解明しました。
• 臨床実践:
• トリプトファンや葉酸などを用いて、精神疾患や気分障害を改善する治療法を実践。
• 腸内環境の改善を含む統合的アプローチを採用しました。
3. 現代の精神栄養学とニュートリゲノミクスの統合
ニュートリゲノミクスの登場
ニュートリゲノミクス(Nutrigenomics)は、栄養が遺伝子発現に与える影響を解明する分野であり、精神栄養学を個別化医療へと進化させました。
• MTHFR遺伝子変異:
• 葉酸の代謝が低下し、不安症やうつ病のリスクを高める可能性がある。
• メチル化葉酸の補充が治療に有効。
• COMT遺伝子変異:
• 神経伝達物質の代謝速度に影響し、ストレス応答や気分障害に関連。
腸脳相関(Gut-Brain Axis)の研究
• 腸内細菌叢が精神疾患に与える影響を研究する新たな視点。
• 発酵食品やプレバイオティクスが腸内環境を改善し、精神的健康を支える可能性が示されています。
4. 精神栄養学への批判と課題
科学的エビデンスの不足
• 精神栄養学の多くの理論や治療法は、観察的研究や小規模試験に基づいており、大規模なランダム化比較試験(RCT)が不足しています。
過剰摂取のリスク
• 高用量ビタミンやミネラルの使用は、副作用や健康リスクを伴う可能性があります。
• 例: ナイアシンの過剰摂取による肝機能障害、ビタミンCの過剰摂取による腎結石。
個別化治療のコスト
• 遺伝子検査や個別化栄養療法は費用が高く、一般的な治療法として普及するにはコスト削減が課題です。
5. 精神栄養学の未来と可能性
精神栄養学は、正常分子医学から発展し、ニュートリゲノミクスの導入により科学的根拠に基づく個別化医療の枠組みを構築しつつあります。この分野の未来には以下のような展望があります:
1. 科学的エビデンスの強化:
• 大規模なRCTやメタアナリシスを通じて、治療法の有効性を確立する。
2. 普及のためのコスト削減:
• 遺伝子検査や栄養療法のコストを下げ、多くの患者が利用できる体制を整える。
3. 統合医療の一環としての採用:
• 栄養療法を従来の薬物療法と統合し、患者の全体的な健康を支える。
結論
欧米における精神栄養学の歴史は、正常分子医学に始まり、栄養素の精神疾患への応用を探る努力によって発展してきました。一方で、科学的エビデンスの不足や治療法の標準化の難しさといった課題も残されています。
しかし、ニュートリゲノミクスや腸脳相関の研究が進むことで、精神栄養学は新たな段階に進みつつあります。今後の研究と実践の進展により、この分野が心と体を統合的に理解し、より効果的な治療法を提供するための重要な柱となることが期待されます。