毒親に振り回される日本
まことに日本の近代史とは、「開け」と言われて開き、「真似ろ」と言われて真似たら、「やりすぎだ」と怒られるという、まるで子供が親に振り回されるかのような屈辱の歴史である。
19世紀、西欧列強は「世界は市場である」とばかりに、日本を半ば脅迫的に開国させた。幕末の日本人は「開かなければ滅ぶ」と悟り、西洋の技術や制度を必死に取り入れた。ところが、いざ富国強兵に成功し、日清・日露戦争で勝利すると、「おいおい、日本、お前はちょっと張り切りすぎじゃないか?」と白人諸国は眉をひそめた。
それでも日本は「一等国」として扱われるべく、第一次世界大戦で連合国側につき、国際連盟常任理事国にまでなった。しかし、いざ人種差別撤廃を提案すると、「いや、それはちょっと……」と西欧はそっぽを向いた。日本が西欧の真似をして植民地を持とうとすると、「帝国主義はもう時代遅れだ」と言われ、英米がやっていたことを模倣して満州国を建てれば「国際法違反だ」と非難された。
そしてついには、ハル・ノートを突きつけられ、「もはやお前に選択肢はない」と追い詰められる。開国以来の模倣はここに至り、真珠湾攻撃という最悪の形で破綻する。戦後は戦後で、「軍国主義は野蛮だ。平和国家になれ」と言われ、従順にそれを受け入れたら、今度は「自立しろ」と叱られる。
こうして日本は、西洋のご機嫌を伺いながら、常に「模倣の罠」に絡め取られてきた。果たして、これからも「欧米の機嫌」を基準に動き続けるのか、それとも「自らの価値」を基準に歩むのか。もはや、日本が決めるべき時ではないか。
「親子別姓 あなたはどこの子?」
「親子別姓 あなたはどこの子?」
選択的夫婦別姓の議論が喧しい。どうにも急ぎすぎる。かつては慎重派だったはずの自民党も、保守系議員をことごとく狙い撃ちにし、先の選挙でまとめて落選させた。「慎重に議論すべき」と言った者が消えれば、残るのは「早く決めろ」の声だけ。なるほど、これで「国民の総意」のできあがりである。
だが、一体何をそんなに急ぐのか。急ぐ理由があるのは分かる。ある者にとっては「個人の自由の拡大」、ある者にとっては「男女平等の実現」だという。だが、本当の理由はもっと別のところにあるのではないか。
「家族」というのは、個人の最後の砦である。
かつて共産主義が隆盛を極めた時代、どの国でも最初に狙われたのは「家族」だった。家族がしっかりしていると、人間はなかなか「理念」では動かない。「共産主義はすばらしい」と言われても、「いや、うちの親父のほうが信用できる」と思ってしまう。それでは困るから、まずは家族の結びつきを緩め、バラバラにする。そうすれば、国家や理念への依存度が増し、支配がしやすくなる。
夫婦別姓の議論も、結局はそこに行き着く。もちろん、個々の事情で別姓を望む人もいるだろう。それはそれで分かる。だが、それを「社会全体の当然の流れ」として推し進めるのは、また別の話だ。
名前とは、単なるラベルではない。それは人間関係の最小単位を示す「記号」でもある。夫婦が同じ姓を名乗ることで、「この人はこの家族に属する」という明確なサインができる。それが、別姓になればどうなるか。
夫婦別姓が当たり前になり、さらに時が経てば、次は「親子別姓」になる。親子別姓が普通になれば、今度は「そもそも姓は必要なのか」という話になる。「姓のない社会」を考えたことがあるか? ある日突然、「あなたの苗字は廃止されました」と言われたらどう思うか?
姓は単なる記号ではない。家族という単位の可視化であり、個人を社会のなかに位置づけるものだ。それを消してしまえば、家族も社会も個人も、「どこにも属さない存在」になる。
「個人の自由を拡大する」と言っていたら、気がつけば何の絆もない社会ができあがる。
今の時代、人間関係はどんどん希薄になり、個人はアトム化している。「自由だ、平等だ、多様性だ」と言いながら、実際には「どこにも属さない、誰ともつながらない、理念だけで操作しやすい個人」を量産しているのだ。
だから、連中にとって商機なのである。名前をバラバラにし、家族をバラバラにし、個人を「ただの点」にしてしまえば、後は「正しい理念」を吹き込むだけで、人間は簡単に動く。自分の所属を失った個人ほど、権威に従順なものはない。
やがて姓すら不要になり、「名前だけの社会」が訪れるかもしれない。もっと進めば、今度は「名前も要らない」となる。「ナンバーで十分」という話が出てくる。すると、人間は「個人情報の集合体」になる。そうなれば、もはや管理は完璧である。
歴史のなかで積み重ねられてきた「家族」の知恵が、一気に崩れ去る日が来るのではないか。名前もなく、つながりもなく、誰の子かも分からない。そんな社会を望む人がいるのだろうか?
昔のご隠居なら、こう嗤ったに違いない。
「自由が増えたと思っていたら、どこにも帰れなくなっていた。これが進歩の果てかね」と。
「虎の威を借る者たち――カメラは嘘をつかない」
「虎の威を借る者たち――カメラは嘘をつかない」
イシバシ氏は褒められる。
だが、カメラは嘘をつかない。
日米首脳会談が「大成功」だったと、旧メディアは一斉に囃した。
握手の瞬間を切り取り、笑顔を並べ、親密な関係を演出する。
だが、少し目を凝らせば、そこに映るのはぎこちない距離感と、演出された親善の舞台裏だ。
映像に映っていたのは、トランプ大統領が明らかに忍耐している姿だった。
横柄で礼儀知らずなイシバシ氏を前に、フレンドリーな笑顔を絶やさず、ぐっと堪えているのが見て取れた。
なぜか?
米中超限戦の時代、日本にはまだ利用価値がある。
経済的にも、軍事的にも、地政学的にも、アメリカにとって手放せないカードの一枚なのだ。
だからこそ、トランプ氏は表面的には笑顔を保ちつつ、しかし確かに「シンゾーの路線を崩すなよ」と釘を刺した。
彼にとって、日本のリーダーが誰であろうと関係ない。
重要なのは、日本がアメリカの利益に貢献するかどうか、それだけだ。
「虎の尾を踏まなければ成功」という錯覚
イシバシ氏は、それを理解しているのか。
いや、彼は今、自分が「大成功」したと信じているのだろう。
メディアもまた、それを囃し立てる。
日米首脳会談は順調だった、親密な関係を築いたと。
だが、カメラは嘘をつかない。
映っていたのは、トランプ氏が見せる「外交的忍耐」だった。
今のところは、足を引っ張らなければ許してやる。
日本が路線を逸れず、余計なことをしなければ、
今の無礼も大目に見よう。
つまり、猶予期間が与えられただけなのだ。
何か勘違いしているのは、むしろイシバシ氏のほうではないか。
かつて、安倍晋三という男は、虎の尾を踏みながらも堂々としていた。
踏むべきところは踏み、譲るべきところは譲る。
それが交渉だった。
だが、今の日本のリーダーたちは違う。
虎の尾を踏まぬように気を使いながら、
虎の威を借りて、自分が何かを成し遂げた気になっている。
メディアはそれを「成功」と報じる。
日本のリーダーが「礼儀知らずでも許された」のは、
彼の手腕の証拠だと持ち上げる。
いや、違う。
それは、日本が「まだ使える駒」だからだ。
外交的に、戦略的に、利用価値があるからだ。
「成功」ではなく「猶予」。
それを理解しないまま、メディアは祭りを続ける。
昔のご隠居なら、こう嗤っただろう。
「日本は虎の尾を踏まずに、虎の威を借りて生きている。だが、虎は威を貸した覚えはないぞ」
「リモコン世代の終焉――煽情の果てに」
「リモコン世代の終焉――煽情の果てに」
かつて、「正しい世論」と「茶の間の正義」はテレビのリモコン一つで操作された。
新聞を開けば、もっともらしい解説が並び、それを信じれば、それで良かった。
そんな時代を、「リモコン世代」と呼ぶことにしよう。
彼らはニュース番組の報道を疑いもせず、ワイドショーの煽りに乗せられ、
「世論とはこうあるべき」と刷り込まれることに何の違和感も抱かなかった。
テレビが決めた「敵」は彼らの敵となり、新聞が示した「正義」が彼らの正義となった。
しかし、リモコン世代は終わった。
その象徴的な出来事が、2022年7月8日――安倍晋三元首相の暗殺だ。
「安倍憎し」に全能感を覚えたメディア
安倍氏の死は、日本のメディアが持つ「煽情力」の極致だった。
事件が起こるや否や、テレビも新聞も一斉に「山上徹也は被害者」「彼を追い詰めたのは安倍政治だ」と報じた。
まるで、銃弾を放ったのが山上ではなく、安倍晋三だったかのように。
「宗教二世」「家庭崩壊」「貧困の連鎖」――山上の境遇は「同情すべき物語」に加工され、
いつの間にか、彼は被害者になっていた。
メディアはこの構図を作り上げながら、そこに快感すら覚えていたのではないか。
安倍氏が総理だった頃から、「安倍憎し」のムードを作り続けることに全能感を感じていた。
どんな政策を打ち出しても、何を発言しても、「悪」と決めつける。
メディアにとって、安倍という存在は「叩いても安全」な標的であり、
批判すればするほど「正義のメディア」としての権威が確立される仕組みになっていた。
そして、それが極まったのが暗殺事件だった。
メディアは「安倍が憎まれていたからこそ暗殺されたのだ」と言わんばかりの論調を展開し、
それを正当化するかのような空気を作り上げた。
「統一教会=諸悪の根源」というすり替え
本来、焦点は「民主主義の根幹を揺るがすテロ行為」だったはずだ。
しかし、メディアは事件の本質をぼかし、「すべての元凶は統一教会」というストーリーを仕立てた。
安倍氏の死は、民主主義に対する暴力だった。
しかし、メディアはそこを追及するどころか、「安倍氏が統一教会と関わっていたことが、山上を追い詰めたのではないか」と論じた。
「安倍さえいなければ、山上の人生は壊れなかった」という錯覚を国民に植え付けたのだ。
そして、国民は怒った。
誰に? 山上に? いいや、統一教会に。
ワイドショーは連日、統一教会批判を繰り返し、国民の怒りは教団に向けられた。
その結果、統一教会は解散請求され、政治家は次々と関係を問われ、メディアは勝利の余韻に浸った。
だが、その後、メディアの影響力はどうなったか?
安倍氏の死を境に、メディアの「煽情力」は下降し始めた。
リモコン世代が確実に減り、「テレビの言うことはもう信じられない」という空気が広がり始めた。
かつて「世論を作る装置」だったメディアは、自らの煽りによって信頼を失ったのだ。
「リモコン世代」から「アルゴリズム世代」へ
かつて、テレビはニュースの中心だった。
しかし今、視聴率は低迷し、新聞の発行部数も減り続けている。
フジテレビは迷走し、朝日新聞は信頼を失い、NHKすら国民の支持を失いつつある。
メディアは未だに「正義」を振りかざすが、視聴者の心を動かせなくなった。
「統一教会」の次にどんな煽りを仕掛けても、かつてのような熱狂は生まれない。
SNSが普及し、情報源は多様化した。
テレビの「リモコン」を握る者は減り、代わりにスマホをスクロールする時代がやってきた。
だが、それは決して「自由な時代」が訪れたことを意味しない。
「テレビの時代は終わった」と喜ぶ者もいる。
しかし、それは誤りだ。
操作する主体が変わっただけで、操作される側は変わっていない。
かつての「リモコン世代」は、新聞とテレビが情報を独占する時代だった。
今の「アルゴリズム世代」は、GAFA(Google・Apple・Facebook・Amazon)のアルゴリズムが情報を支配する時代だ。
どちらがマシか? どちらも同じではないか?
結局、人々は情報を選んでいるようで、選ばされたものを見ているに過ぎない。
テレビのリモコンを置いたところで、次に待っているのは、「アルゴリズムによる管理社会」なのだ。
昔のご隠居ならこう嗤っただろう
「人は、リモコンを手放して自由になったと思う。しかし、次に待っているのは、もっと巧妙な操作だ。テレビに騙された者はまだ幸せだった。これからは、騙されていることすら気づかないのだから。」
「イシバシは叩かれない」
「イシバシは叩かれない」
マイクを持ったごろつきたちは、フジテレビの問題に群がり、
フジテレビを叩くのは簡単だ。彼らはかつての巨象だが、
この「王様」とは誰なのか。
文春が火をつければ、後から大勢のメディアが群がる。
先師ならこう嗤ったに違いない。「
言葉のごろつきたちが「王様」を叩ける日は来るのだろうか。