2025-03-09 10:50:00

毒親に振り回される日本

 

まことに日本の近代史とは、「開け」と言われて開き、「真似ろ」と言われて真似たら、「やりすぎだ」と怒られるという、まるで子供が親に振り回されるかのような屈辱の歴史である。

 

19世紀、西欧列強は「世界は市場である」とばかりに、日本を半ば脅迫的に開国させた。幕末の日本人は「開かなければ滅ぶ」と悟り、西洋の技術や制度を必死に取り入れた。ところが、いざ富国強兵に成功し、日清・日露戦争で勝利すると、「おいおい、日本、お前はちょっと張り切りすぎじゃないか?」と白人諸国は眉をひそめた。

 

それでも日本は「一等国」として扱われるべく、第一次世界大戦で連合国側につき、国際連盟常任理事国にまでなった。しかし、いざ人種差別撤廃を提案すると、「いや、それはちょっと……」と西欧はそっぽを向いた。日本が西欧の真似をして植民地を持とうとすると、「帝国主義はもう時代遅れだ」と言われ、英米がやっていたことを模倣して満州国を建てれば「国際法違反だ」と非難された。

 

そしてついには、ハル・ノートを突きつけられ、「もはやお前に選択肢はない」と追い詰められる。開国以来の模倣はここに至り、真珠湾攻撃という最悪の形で破綻する。戦後は戦後で、「軍国主義は野蛮だ。平和国家になれ」と言われ、従順にそれを受け入れたら、今度は「自立しろ」と叱られる。

 

こうして日本は、西洋のご機嫌を伺いながら、常に「模倣の罠」に絡め取られてきた。果たして、これからも「欧米の機嫌」を基準に動き続けるのか、それとも「自らの価値」を基準に歩むのか。もはや、日本が決めるべき時ではないか。

 

2025-02-16 16:05:00

「親子別姓 あなたはどこの子?」

「親子別姓 あなたはどこの子?」

選択的夫婦別姓の議論が喧しい。どうにも急ぎすぎる。かつては慎重派だったはずの自民党も、保守系議員をことごとく狙い撃ちにし、先の選挙でまとめて落選させた。「慎重に議論すべき」と言った者が消えれば、残るのは「早く決めろ」の声だけ。なるほど、これで「国民の総意」のできあがりである。

だが、一体何をそんなに急ぐのか。急ぐ理由があるのは分かる。ある者にとっては「個人の自由の拡大」、ある者にとっては「男女平等の実現」だという。だが、本当の理由はもっと別のところにあるのではないか。

「家族」というのは、個人の最後の砦である。
かつて共産主義が隆盛を極めた時代、どの国でも最初に狙われたのは「家族」だった。家族がしっかりしていると、人間はなかなか「理念」では動かない。「共産主義はすばらしい」と言われても、「いや、うちの親父のほうが信用できる」と思ってしまう。それでは困るから、まずは家族の結びつきを緩め、バラバラにする。そうすれば、国家や理念への依存度が増し、支配がしやすくなる。

夫婦別姓の議論も、結局はそこに行き着く。もちろん、個々の事情で別姓を望む人もいるだろう。それはそれで分かる。だが、それを「社会全体の当然の流れ」として推し進めるのは、また別の話だ。

名前とは、単なるラベルではない。それは人間関係の最小単位を示す「記号」でもある。夫婦が同じ姓を名乗ることで、「この人はこの家族に属する」という明確なサインができる。それが、別姓になればどうなるか。

夫婦別姓が当たり前になり、さらに時が経てば、次は「親子別姓」になる。親子別姓が普通になれば、今度は「そもそも姓は必要なのか」という話になる。「姓のない社会」を考えたことがあるか? ある日突然、「あなたの苗字は廃止されました」と言われたらどう思うか?

姓は単なる記号ではない。家族という単位の可視化であり、個人を社会のなかに位置づけるものだ。それを消してしまえば、家族も社会も個人も、「どこにも属さない存在」になる。

「個人の自由を拡大する」と言っていたら、気がつけば何の絆もない社会ができあがる。
今の時代、人間関係はどんどん希薄になり、個人はアトム化している。「自由だ、平等だ、多様性だ」と言いながら、実際には「どこにも属さない、誰ともつながらない、理念だけで操作しやすい個人」を量産しているのだ。

だから、連中にとって商機なのである。名前をバラバラにし、家族をバラバラにし、個人を「ただの点」にしてしまえば、後は「正しい理念」を吹き込むだけで、人間は簡単に動く。自分の所属を失った個人ほど、権威に従順なものはない。

やがて姓すら不要になり、「名前だけの社会」が訪れるかもしれない。もっと進めば、今度は「名前も要らない」となる。「ナンバーで十分」という話が出てくる。すると、人間は「個人情報の集合体」になる。そうなれば、もはや管理は完璧である。

歴史のなかで積み重ねられてきた「家族」の知恵が、一気に崩れ去る日が来るのではないか。名前もなく、つながりもなく、誰の子かも分からない。そんな社会を望む人がいるのだろうか?

昔のご隠居なら、こう嗤ったに違いない。
「自由が増えたと思っていたら、どこにも帰れなくなっていた。これが進歩の果てかね」と。

2025-02-11 18:15:00

「虎の威を借る者たち――カメラは嘘をつかない」

「虎の威を借る者たち――カメラは嘘をつかない」

イシバシ氏は褒められる。
だが、カメラは嘘をつかない。

日米首脳会談が「大成功」だったと、旧メディアは一斉に囃した。
握手の瞬間を切り取り、笑顔を並べ、親密な関係を演出する。
だが、少し目を凝らせば、そこに映るのはぎこちない距離感と、演出された親善の舞台裏だ。

映像に映っていたのは、トランプ大統領が明らかに忍耐している姿だった。
横柄で礼儀知らずなイシバシ氏を前に、フレンドリーな笑顔を絶やさず、ぐっと堪えているのが見て取れた。
なぜか?

米中超限戦の時代、日本にはまだ利用価値がある。
経済的にも、軍事的にも、地政学的にも、アメリカにとって手放せないカードの一枚なのだ。
だからこそ、トランプ氏は表面的には笑顔を保ちつつ、しかし確かに「シンゾーの路線を崩すなよ」と釘を刺した。
彼にとって、日本のリーダーが誰であろうと関係ない。
重要なのは、日本がアメリカの利益に貢献するかどうか、それだけだ。

「虎の尾を踏まなければ成功」という錯覚

イシバシ氏は、それを理解しているのか。
いや、彼は今、自分が「大成功」したと信じているのだろう。
メディアもまた、それを囃し立てる。
日米首脳会談は順調だった、親密な関係を築いたと。

だが、カメラは嘘をつかない。
映っていたのは、トランプ氏が見せる「外交的忍耐」だった。
今のところは、足を引っ張らなければ許してやる。
日本が路線を逸れず、余計なことをしなければ、
今の無礼も大目に見よう。

つまり、猶予期間が与えられただけなのだ。
何か勘違いしているのは、むしろイシバシ氏のほうではないか。

かつて、安倍晋三という男は、虎の尾を踏みながらも堂々としていた。
踏むべきところは踏み、譲るべきところは譲る。
それが交渉だった。

だが、今の日本のリーダーたちは違う。
虎の尾を踏まぬように気を使いながら、
虎の威を借りて、自分が何かを成し遂げた気になっている。

メディアはそれを「成功」と報じる。
日本のリーダーが「礼儀知らずでも許された」のは、
彼の手腕の証拠だと持ち上げる。

いや、違う。
それは、日本が「まだ使える駒」だからだ。
外交的に、戦略的に、利用価値があるからだ。

「成功」ではなく「猶予」。
それを理解しないまま、メディアは祭りを続ける。

昔のご隠居なら、こう嗤っただろう。

「日本は虎の尾を踏まずに、虎の威を借りて生きている。だが、虎は威を貸した覚えはないぞ」

2025-02-09 12:11:00

「リモコン世代の終焉――煽情の果てに」

「リモコン世代の終焉――煽情の果てに」

かつて、「正しい世論」と「茶の間の正義」はテレビのリモコン一つで操作された。
新聞を開けば、もっともらしい解説が並び、それを信じれば、それで良かった。
そんな時代を、「リモコン世代」と呼ぶことにしよう。

彼らはニュース番組の報道を疑いもせず、ワイドショーの煽りに乗せられ、
「世論とはこうあるべき」と刷り込まれることに何の違和感も抱かなかった。
テレビが決めた「敵」は彼らの敵となり、新聞が示した「正義」が彼らの正義となった。

しかし、リモコン世代は終わった。
その象徴的な出来事が、2022年7月8日――安倍晋三元首相の暗殺だ。

「安倍憎し」に全能感を覚えたメディア

安倍氏の死は、日本のメディアが持つ「煽情力」の極致だった。

事件が起こるや否や、テレビも新聞も一斉に「山上徹也は被害者」「彼を追い詰めたのは安倍政治だ」と報じた。
まるで、銃弾を放ったのが山上ではなく、安倍晋三だったかのように。

「宗教二世」「家庭崩壊」「貧困の連鎖」――山上の境遇は「同情すべき物語」に加工され、
いつの間にか、彼は被害者になっていた。

メディアはこの構図を作り上げながら、そこに快感すら覚えていたのではないか。
安倍氏が総理だった頃から、「安倍憎し」のムードを作り続けることに全能感を感じていた。
どんな政策を打ち出しても、何を発言しても、「悪」と決めつける。
メディアにとって、安倍という存在は「叩いても安全」な標的であり、
批判すればするほど「正義のメディア」としての権威が確立される仕組みになっていた。

そして、それが極まったのが暗殺事件だった。
メディアは「安倍が憎まれていたからこそ暗殺されたのだ」と言わんばかりの論調を展開し、
それを正当化するかのような空気を作り上げた。

「統一教会=諸悪の根源」というすり替え

本来、焦点は「民主主義の根幹を揺るがすテロ行為」だったはずだ。
しかし、メディアは事件の本質をぼかし、
「すべての元凶は統一教会」というストーリーを仕立てた。

安倍氏の死は、民主主義に対する暴力だった。
しかし、メディアはそこを追及するどころか、「安倍氏が統一教会と関わっていたことが、山上を追い詰めたのではないか」と論じた。
「安倍さえいなければ、山上の人生は壊れなかった」という錯覚を国民に植え付けたのだ。

そして、国民は怒った。
誰に? 山上に? いいや、統一教会に。

ワイドショーは連日、統一教会批判を繰り返し、国民の怒りは教団に向けられた。
その結果、統一教会は解散請求され、政治家は次々と関係を問われ、メディアは勝利の余韻に浸った。

だが、その後、メディアの影響力はどうなったか?

安倍氏の死を境に、メディアの「煽情力」は下降し始めた。
リモコン世代が確実に減り、「テレビの言うことはもう信じられない」という空気が広がり始めた。
かつて「世論を作る装置」だったメディアは、自らの煽りによって信頼を失ったのだ。

「リモコン世代」から「アルゴリズム世代」へ

かつて、テレビはニュースの中心だった。
しかし今、視聴率は低迷し、新聞の発行部数も減り続けている。
フジテレビは迷走し、朝日新聞は信頼を失い、NHKすら国民の支持を失いつつある。

メディアは未だに「正義」を振りかざすが、視聴者の心を動かせなくなった。
「統一教会」の次にどんな煽りを仕掛けても、かつてのような熱狂は生まれない。

SNSが普及し、情報源は多様化した。
テレビの「リモコン」を握る者は減り、代わりにスマホをスクロールする時代がやってきた。
だが、それは決して「自由な時代」が訪れたことを意味しない。

「テレビの時代は終わった」と喜ぶ者もいる。
しかし、それは誤りだ。

操作する主体が変わっただけで、操作される側は変わっていない。
かつての「リモコン世代」は、新聞とテレビが情報を独占する時代だった。
今の「アルゴリズム世代」は、GAFA(Google・Apple・Facebook・Amazon)のアルゴリズムが情報を支配する時代だ。

どちらがマシか? どちらも同じではないか?

結局、人々は情報を選んでいるようで、選ばされたものを見ているに過ぎない。
テレビのリモコンを置いたところで、次に待っているのは、「アルゴリズムによる管理社会」なのだ。

昔のご隠居ならこう嗤っただろう

「人は、リモコンを手放して自由になったと思う。しかし、次に待っているのは、もっと巧妙な操作だ。テレビに騙された者はまだ幸せだった。これからは、騙されていることすら気づかないのだから。」

2025-01-28 21:31:00

「イシバシは叩かれない」

 「イシバシは叩かれない」

マイクを持ったごろつきたちは、フジテレビの問題に群がり、手にした言葉を振り回している。テレビカメラの向こうに無数の国民の視線があることを知り、その注目に酔いしれているのだ。叩きやすい的を見つけては、徹底的に攻撃を繰り返す。しかし、もっと叩けば喝采を浴びる「王様」には、誰も触れようとしない。不思議な光景だ。

 

フジテレビを叩くのは簡単だ。彼らはかつての巨象だが、いまや倒れた姿を晒している。叩けば国民は手を叩き、メディアには「正義」の勲章が与えられる。しかし、それは真の正義でも、勇気でもない。ただ「叩いても安全」な的を叩いているだけだ。もっと国民感情と乖離した「王様」、つまり本来の標的がいるはずだが、その存在は見て見ぬふりをされている。

 

この「王様」とは誰なのか。言葉のごろつきたちが自ら守り続けてきた「空気」そのものだ。彼らが国民感情を操作し、作り上げた見えない壁。それは「ロバの耳」と呟く一言で崩れるだろうが、問題はその一言を最初に発する者がいないことだ。メディア自身がその壁の建設者であり、崩せば自らの過ちを晒すことになる。だから、真実を暴く役割は、いつも週刊文春のような外部に委ねられる。

 

文春が火をつければ、後から大勢のメディアが群がる。それが日本のメディアの常だ。だが、文春が暴くものがいつも真実とは限らない。話題性が優先され、真実とセンセーショナリズムの境界はしばしば曖昧になる。それでも、多くのメディアはその後を追い、「安全な範囲」で騒ぎを繰り返すだけだ。ペンの力を標榜しながら、実際には誰も先陣を切る覚悟を持たない。フジテレビが叩かれ尽くしたら、次の標的はどこか。それを決めるのは、またもや「空気」なのだろう

 

先師ならこう嗤ったに違いない。「メディアが王様を叩けない理由は簡単だ。彼らがその王様を作ったからだ。ロバの耳を暴くのは、勇気ではなく、己の恥を暴く行為に等しい。だから、倒れた巨象を叩く。それが最も安全で、何も失わないからだ」と。

 

言葉のごろつきたちが「王様」を叩ける日は来るのだろうか。それとも、その日が来る前に、また新たな壁が築かれるのか。その答えは、王様の耳の中だけが知っている。