2025-01-28 21:31:00

「イシバシは叩かれない」

 「イシバシは叩かれない」

マイクを持ったごろつきたちは、フジテレビの問題に群がり、手にした言葉を振り回している。テレビカメラの向こうに無数の国民の視線があることを知り、その注目に酔いしれているのだ。叩きやすい的を見つけては、徹底的に攻撃を繰り返す。しかし、もっと叩けば喝采を浴びる「王様」には、誰も触れようとしない。不思議な光景だ。

 

フジテレビを叩くのは簡単だ。彼らはかつての巨象だが、いまや倒れた姿を晒している。叩けば国民は手を叩き、メディアには「正義」の勲章が与えられる。しかし、それは真の正義でも、勇気でもない。ただ「叩いても安全」な的を叩いているだけだ。もっと国民感情と乖離した「王様」、つまり本来の標的がいるはずだが、その存在は見て見ぬふりをされている。

 

この「王様」とは誰なのか。言葉のごろつきたちが自ら守り続けてきた「空気」そのものだ。彼らが国民感情を操作し、作り上げた見えない壁。それは「ロバの耳」と呟く一言で崩れるだろうが、問題はその一言を最初に発する者がいないことだ。メディア自身がその壁の建設者であり、崩せば自らの過ちを晒すことになる。だから、真実を暴く役割は、いつも週刊文春のような外部に委ねられる。

 

文春が火をつければ、後から大勢のメディアが群がる。それが日本のメディアの常だ。だが、文春が暴くものがいつも真実とは限らない。話題性が優先され、真実とセンセーショナリズムの境界はしばしば曖昧になる。それでも、多くのメディアはその後を追い、「安全な範囲」で騒ぎを繰り返すだけだ。ペンの力を標榜しながら、実際には誰も先陣を切る覚悟を持たない。フジテレビが叩かれ尽くしたら、次の標的はどこか。それを決めるのは、またもや「空気」なのだろう

 

先師ならこう嗤ったに違いない。「メディアが王様を叩けない理由は簡単だ。彼らがその王様を作ったからだ。ロバの耳を暴くのは、勇気ではなく、己の恥を暴く行為に等しい。だから、倒れた巨象を叩く。それが最も安全で、何も失わないからだ」と。

 

言葉のごろつきたちが「王様」を叩ける日は来るのだろうか。それとも、その日が来る前に、また新たな壁が築かれるのか。その答えは、王様の耳の中だけが知っている。