2025-02-11 20:24:00

「坐禅は安楽への法門か?」

「坐禅は安楽への法門か?」

子どもたちがまだ小さかった頃、近くの禅寺で開かれる参禅会に連れて行ったことがある。親の力がまだ及ぶ時代の話だ。

坐禅の時間は30分ほど。子どもにとっては少し長かったかもしれない。だが、修行が終われば、老師を囲んでの茶飲みが始まる。その時、決まって手製の揚げ餅が出た。香ばしく、ほんのりとした塩味が口に広がる。それをつまみながら、禅の話だけでなく、四方山話に花が咲いた。

ある時、アメリカ人の青年が坐禅に通っていたことがあった。ある日の茶飲みの席で「悟りとは何か?」という話題になった。私はどこかで聞いた受け売りを口にした。「それは、常に乗り越えられるべき仮の答えだ」と。老師は静かに微笑んでいた。

それから長い時が経った。

ある日、大人になった長女がぽつりと言った。

「あれは虐待だったよね」

彼女がインナーチャイルドを抱えていた頃の話だ。理不尽な記憶が疼き、親への恨みが込み上げる時期だったのだろう。確かに、親の趣味で面白くもない坐禅に連れて行かれ、足を痺れさせながらじっと座らされるのは、子どもにとってはただの苦行だったに違いない。衰えた親としては、反省せざるを得ない。

そんな娘が、正月に家族と遊びに来た。

みんなでセブンイレブンに買い物に行った時、彼女が揚げ餅を手に取り、婿に向かって言った。

「子どもの頃、坐禅に連れて行かれたんだけどね、坐禅が終わると揚げ餅が出るの。それが食べたくて、坐禅している間ずっと、早く食べたいって煩悩の塊になってたんだよね」

そう言って、娘は楽しそうに笑った。

どうやら、娘も一山越えたのかもしれない。

幼い頃には理不尽に思えたことも、時が経ち、少し離れた場所から振り返れば、案外笑い話になっているものだ。坐禅で悟りは開けなくても、時が過ぎれば、人は少しずつ煩悩と仲良くなれる。

坐禅は、本当に安楽への法門だったのだろうか。

 

悟りへの道ではなく、揚げ餅への道だったとしても、きっとそれもまた、修行なのだろう。

2025-02-10 06:47:00

「連続38万回の奇跡」

「連続38万回の奇跡」

 作年末に熱を出した。熱が出ると人間は原始人に戻る。布団にうずくまり、外敵(つまり、寒さと病原菌)から身を守り、ただひたすら回復を待つ。これほど科学を信じる者も、38度の熱には勝てないのだ。

 インフルエンザかもしれないと思い、インコロ(インフルエンザとコロナの同時検査キット)を試した。陰性だった。翌日、もう一度試した。陰性だった。妙なもので、2日連続で陰性が続くと「本当に?」と疑いたくなる。世の中、確率とは不思議なもので、当たるときは当たるし、外れるときは外れる。

 1月31日、年末ジャンボの当選結果を確認した。ハズレ。

 「3回続けて外れるとは、何と不運だ」と、大学時代の同級生に年賀状に書いた。すると、すぐに返事がきた。「次に当たったら、確率4分の1で高すぎる」とある。確率に詳しくないが、なるほどと思った。

 年末ジャンボに当たる確率は 1/10,000,000(1000万分の1) である。これを3回続けて外したところで、何の驚きもないはずだ。しかし、体調不良と陰性続きと年末ジャンボのハズレが重なると、人は妙に「運」に敏感になる。「ツイていない」と嘆きたくなる。

 だが、私は生きている。連続38万回、宝くじ1等を当て続けたほどの奇跡をくぐり抜けて。

 生まれる確率を計算すると、宝くじに38万回連続で当たるのと同じくらい低いという。そう考えれば、「3回のハズレ」に文句を言うのは滑稽である。生きているだけで、もう十分に運を使い果たしているのだ。

 人間は身の丈を知らねばならぬ。連続38万回の奇跡をすでに享受しているのに、さらに1回の奇跡を望むのは、虫が良すぎる。

 

 今年もまた、年末ジャンボを買おう。そしてまた外れるだろう。そのときは、「今年も無事に生き延びました」とでも書いて、同級生に送ってやろうと思う。

2025-01-10 22:14:00

「心の緊張と希望の記憶—新しい土地で見つけた生きる力」

 

 

「心の緊張と希望の記憶—新しい土地で見つけた生きる力」

 

昨年末、仕事納めを終えた後に微熱を出して寝込んでしまった。2回インフルエンザと新型コロナの検査をやってみたが陰性で、「これはもう休むしかないな」と思い、布団にくるまってじっとしていた。こうした経験は初めてではない。クリニックを開業した当初から長く勤めてくれた師長さんも、「普段は滅多に風邪を引かないのに、年末年始になると決まって熱を出す」と言っていたことを思い出す。どうやら張り詰めていた心の緊張が解けると、身体が反応してしまうらしい。

 

寝込んでいる間、大学時代に読んだ清岡卓行の『アカシアの大連』を思い出した。医学部に入ったばかりの頃、ふと手に取ったこの小説の中で、敗戦の年の4月、主人公が日本から大連の実家に帰省し、緊張が解けた途端に熱を出して寝込むシーンが出てきて、思わず苦笑したことを覚えている。

 

物語は、戦前から戦中、そして終戦を迎える大連での生活を主人公の視点から描いている。異国の地で新しい生活を築きながらも、戦争の影が徐々に迫り、平穏な日々が崩れていく中で、主人公は自らの存在意義を深く問い続ける。そして、死を単なる終わりではなく「美しい終結」として憧れを抱く一方で、無惨に肉体と意識が滅び去る現実的な死への恐怖を抱き、両者の間で葛藤する。

 

主人公の死に対する考えは、「人生の終結としての美しい死」に憧れながらも、「無惨に肉体と意識が滅び去る忌避すべき死」という現実を直視することで分裂している。戦時下の厳しい現実に直面する中で、この二つの相反する死生観に揺れ動く主人公の姿は、単なるフィクションではなく、時代に生きた多くの人々の心の葛藤を象徴している。

 

特に印象に残ったのは、『「彼女と一緒なら、生きて行ける」という思いが、主人公の胸を膨らませ、やがて、魅惑の死をときどきはまったく忘れさせるようになっていた』という一節だった。この言葉は、主人公が「美しい死」への憧れを忘れ、「生きること」に希望を見出すきっかけとなった瞬間を象徴している。主人公は他者とのつながりを得ることで、死に惹かれる心情から解放され、未来に向かう力を得たのだ。

 

私自身もまた、この言葉に共感した。高校2年のときに北海道の故郷を離れ、家族と共に茨城県に移り住んだ私は、不安を抱えながら新しい生活を始めた。当時は東京の大学に進学したいという夢を持っていたが、現実はそう甘くはなく、最終的に父親の勧めもあって栃木県の自治医科大学に進学することになった。希望していた道が叶わなかった悔しさや、新天地での生活への不安が入り混じる日々の中で、自分の居場所を見つけることに必死だった。

 

そんな中、学生寮で出会った先輩や友人たちの存在が私にとっての「生きて行ける」という思いを支えてくれた。見知らぬ土地、未知の医学の世界での孤独感や戸惑いは、彼らとのつながりを通じて少しずつ和らいでいった。私にとっての「彼女と一緒なら、生きて行ける」という言葉は、彼らとのつながりそのものだったのだろう。

 

清岡卓行の主人公が、生きる希望を見出したように、私もまた、人とのつながりを通じて「生きて行ける」と思えるようになった。その思いが、不安に満ちた日々を希望に変え、私を前へと進ませてくれた。

 

今も、忙しい日々の中でふと立ち止まり、不安を感じることがある。「この道を進み続けていいのだろうか」と迷うこともあるが、これまでの経験を振り返ると、支え合える誰かの存在が、「生きて行ける」という確信を生んできたことを実感する。

 

年末になると忙しさから解放され、心の緊張がふっと解ける瞬間がある。そのたびに微熱を出して寝込むこともあるが、それは一つの「休息のサイン」なのかもしれない。緊張と弛緩を繰り返しながら、私たちは少しずつ歩みを進めていく。そしてその歩みの中で、「生きて行ける」と思えた瞬間こそが、人の心を支え、未来を切り拓く力になるのだと、清岡卓行の言葉を通して改めて感じている。