「坐禅は安楽への法門か?」
「坐禅は安楽への法門か?」
子どもたちがまだ小さかった頃、近くの禅寺で開かれる参禅会に連れて行ったことがある。親の力がまだ及ぶ時代の話だ。
坐禅の時間は30分ほど。子どもにとっては少し長かったかもしれない。だが、修行が終われば、老師を囲んでの茶飲みが始まる。その時、決まって手製の揚げ餅が出た。香ばしく、ほんのりとした塩味が口に広がる。それをつまみながら、禅の話だけでなく、四方山話に花が咲いた。
ある時、アメリカ人の青年が坐禅に通っていたことがあった。ある日の茶飲みの席で「悟りとは何か?」という話題になった。私はどこかで聞いた受け売りを口にした。「それは、常に乗り越えられるべき仮の答えだ」と。老師は静かに微笑んでいた。
それから長い時が経った。
ある日、大人になった長女がぽつりと言った。
「あれは虐待だったよね」
彼女がインナーチャイルドを抱えていた頃の話だ。理不尽な記憶が疼き、親への恨みが込み上げる時期だったのだろう。確かに、親の趣味で面白くもない坐禅に連れて行かれ、足を痺れさせながらじっと座らされるのは、子どもにとってはただの苦行だったに違いない。衰えた親としては、反省せざるを得ない。
そんな娘が、正月に家族と遊びに来た。
みんなでセブンイレブンに買い物に行った時、彼女が揚げ餅を手に取り、婿に向かって言った。
「子どもの頃、坐禅に連れて行かれたんだけどね、坐禅が終わると揚げ餅が出るの。それが食べたくて、坐禅している間ずっと、早く食べたいって煩悩の塊になってたんだよね」
そう言って、娘は楽しそうに笑った。
どうやら、娘も一山越えたのかもしれない。
幼い頃には理不尽に思えたことも、時が経ち、少し離れた場所から振り返れば、案外笑い話になっているものだ。坐禅で悟りは開けなくても、時が過ぎれば、人は少しずつ煩悩と仲良くなれる。
坐禅は、本当に安楽への法門だったのだろうか。
悟りへの道ではなく、揚げ餅への道だったとしても、きっとそれもまた、修行なのだろう。