2025-02-09 12:11:00

「リモコン世代の終焉――煽情の果てに」

「リモコン世代の終焉――煽情の果てに」

かつて、「正しい世論」と「茶の間の正義」はテレビのリモコン一つで操作された。
新聞を開けば、もっともらしい解説が並び、それを信じれば、それで良かった。
そんな時代を、「リモコン世代」と呼ぶことにしよう。

彼らはニュース番組の報道を疑いもせず、ワイドショーの煽りに乗せられ、
「世論とはこうあるべき」と刷り込まれることに何の違和感も抱かなかった。
テレビが決めた「敵」は彼らの敵となり、新聞が示した「正義」が彼らの正義となった。

しかし、リモコン世代は終わった。
その象徴的な出来事が、2022年7月8日――安倍晋三元首相の暗殺だ。

「安倍憎し」に全能感を覚えたメディア

安倍氏の死は、日本のメディアが持つ「煽情力」の極致だった。

事件が起こるや否や、テレビも新聞も一斉に「山上徹也は被害者」「彼を追い詰めたのは安倍政治だ」と報じた。
まるで、銃弾を放ったのが山上ではなく、安倍晋三だったかのように。

「宗教二世」「家庭崩壊」「貧困の連鎖」――山上の境遇は「同情すべき物語」に加工され、
いつの間にか、彼は被害者になっていた。

メディアはこの構図を作り上げながら、そこに快感すら覚えていたのではないか。
安倍氏が総理だった頃から、「安倍憎し」のムードを作り続けることに全能感を感じていた。
どんな政策を打ち出しても、何を発言しても、「悪」と決めつける。
メディアにとって、安倍という存在は「叩いても安全」な標的であり、
批判すればするほど「正義のメディア」としての権威が確立される仕組みになっていた。

そして、それが極まったのが暗殺事件だった。
メディアは「安倍が憎まれていたからこそ暗殺されたのだ」と言わんばかりの論調を展開し、
それを正当化するかのような空気を作り上げた。

「統一教会=諸悪の根源」というすり替え

本来、焦点は「民主主義の根幹を揺るがすテロ行為」だったはずだ。
しかし、メディアは事件の本質をぼかし、
「すべての元凶は統一教会」というストーリーを仕立てた。

安倍氏の死は、民主主義に対する暴力だった。
しかし、メディアはそこを追及するどころか、「安倍氏が統一教会と関わっていたことが、山上を追い詰めたのではないか」と論じた。
「安倍さえいなければ、山上の人生は壊れなかった」という錯覚を国民に植え付けたのだ。

そして、国民は怒った。
誰に? 山上に? いいや、統一教会に。

ワイドショーは連日、統一教会批判を繰り返し、国民の怒りは教団に向けられた。
その結果、統一教会は解散請求され、政治家は次々と関係を問われ、メディアは勝利の余韻に浸った。

だが、その後、メディアの影響力はどうなったか?

安倍氏の死を境に、メディアの「煽情力」は下降し始めた。
リモコン世代が確実に減り、「テレビの言うことはもう信じられない」という空気が広がり始めた。
かつて「世論を作る装置」だったメディアは、自らの煽りによって信頼を失ったのだ。

「リモコン世代」から「アルゴリズム世代」へ

かつて、テレビはニュースの中心だった。
しかし今、視聴率は低迷し、新聞の発行部数も減り続けている。
フジテレビは迷走し、朝日新聞は信頼を失い、NHKすら国民の支持を失いつつある。

メディアは未だに「正義」を振りかざすが、視聴者の心を動かせなくなった。
「統一教会」の次にどんな煽りを仕掛けても、かつてのような熱狂は生まれない。

SNSが普及し、情報源は多様化した。
テレビの「リモコン」を握る者は減り、代わりにスマホをスクロールする時代がやってきた。
だが、それは決して「自由な時代」が訪れたことを意味しない。

「テレビの時代は終わった」と喜ぶ者もいる。
しかし、それは誤りだ。

操作する主体が変わっただけで、操作される側は変わっていない。
かつての「リモコン世代」は、新聞とテレビが情報を独占する時代だった。
今の「アルゴリズム世代」は、GAFA(Google・Apple・Facebook・Amazon)のアルゴリズムが情報を支配する時代だ。

どちらがマシか? どちらも同じではないか?

結局、人々は情報を選んでいるようで、選ばされたものを見ているに過ぎない。
テレビのリモコンを置いたところで、次に待っているのは、「アルゴリズムによる管理社会」なのだ。

昔のご隠居ならこう嗤っただろう

「人は、リモコンを手放して自由になったと思う。しかし、次に待っているのは、もっと巧妙な操作だ。テレビに騙された者はまだ幸せだった。これからは、騙されていることすら気づかないのだから。」