2025-02-16 16:05:00

「親子別姓 あなたはどこの子?」

「親子別姓 あなたはどこの子?」

選択的夫婦別姓の議論が喧しい。どうにも急ぎすぎる。かつては慎重派だったはずの自民党も、保守系議員をことごとく狙い撃ちにし、先の選挙でまとめて落選させた。「慎重に議論すべき」と言った者が消えれば、残るのは「早く決めろ」の声だけ。なるほど、これで「国民の総意」のできあがりである。

だが、一体何をそんなに急ぐのか。急ぐ理由があるのは分かる。ある者にとっては「個人の自由の拡大」、ある者にとっては「男女平等の実現」だという。だが、本当の理由はもっと別のところにあるのではないか。

「家族」というのは、個人の最後の砦である。
かつて共産主義が隆盛を極めた時代、どの国でも最初に狙われたのは「家族」だった。家族がしっかりしていると、人間はなかなか「理念」では動かない。「共産主義はすばらしい」と言われても、「いや、うちの親父のほうが信用できる」と思ってしまう。それでは困るから、まずは家族の結びつきを緩め、バラバラにする。そうすれば、国家や理念への依存度が増し、支配がしやすくなる。

夫婦別姓の議論も、結局はそこに行き着く。もちろん、個々の事情で別姓を望む人もいるだろう。それはそれで分かる。だが、それを「社会全体の当然の流れ」として推し進めるのは、また別の話だ。

名前とは、単なるラベルではない。それは人間関係の最小単位を示す「記号」でもある。夫婦が同じ姓を名乗ることで、「この人はこの家族に属する」という明確なサインができる。それが、別姓になればどうなるか。

夫婦別姓が当たり前になり、さらに時が経てば、次は「親子別姓」になる。親子別姓が普通になれば、今度は「そもそも姓は必要なのか」という話になる。「姓のない社会」を考えたことがあるか? ある日突然、「あなたの苗字は廃止されました」と言われたらどう思うか?

姓は単なる記号ではない。家族という単位の可視化であり、個人を社会のなかに位置づけるものだ。それを消してしまえば、家族も社会も個人も、「どこにも属さない存在」になる。

「個人の自由を拡大する」と言っていたら、気がつけば何の絆もない社会ができあがる。
今の時代、人間関係はどんどん希薄になり、個人はアトム化している。「自由だ、平等だ、多様性だ」と言いながら、実際には「どこにも属さない、誰ともつながらない、理念だけで操作しやすい個人」を量産しているのだ。

だから、連中にとって商機なのである。名前をバラバラにし、家族をバラバラにし、個人を「ただの点」にしてしまえば、後は「正しい理念」を吹き込むだけで、人間は簡単に動く。自分の所属を失った個人ほど、権威に従順なものはない。

やがて姓すら不要になり、「名前だけの社会」が訪れるかもしれない。もっと進めば、今度は「名前も要らない」となる。「ナンバーで十分」という話が出てくる。すると、人間は「個人情報の集合体」になる。そうなれば、もはや管理は完璧である。

歴史のなかで積み重ねられてきた「家族」の知恵が、一気に崩れ去る日が来るのではないか。名前もなく、つながりもなく、誰の子かも分からない。そんな社会を望む人がいるのだろうか?

昔のご隠居なら、こう嗤ったに違いない。
「自由が増えたと思っていたら、どこにも帰れなくなっていた。これが進歩の果てかね」と。