莫妄想 ― 坐禅は安楽の法門か
莫妄想 ― 坐禅は安楽の法門か
「莫妄想(まくもうそう)」。
禅では有名な言葉である。
文字通りなら「妄想するな」だが、これは「考えるな」という意味ではない。むしろ逆である。
妄想が浮かぶ。雑念が湧く。不安が出る。怒りが出る。
それを無理に消そうとしない。
ただ、巻き込まれない。
この簡単そうで難しい態度を、禅では「莫妄想」と呼んできた。
坐禅は苦行か、それとも安楽か
精神科医・平井富雄は、坐禅を「安楽の法門」と呼んだ。
法門とは入口である。
つまり、
坐禅は苦しむ技術ではなく、安らぎへ入る技術ではないか
と考えたのである。
実際、平井らの脳波研究では、熟練者の坐禅中には、
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α活動の増加
-
覚醒を保ったθ活動
-
外界反応性を失わない静穏状態
が観察された。
彼はこれを、
「集中性緊張解放」
と表現した。
集中している。
しかし力んでいない。
覚醒している。
しかし緊張していない。
この逆説的状態こそ、坐禅の特徴だった。
現代脳科学は何を付け加えたか
現在は、脳波だけでは説明しない。
むしろ重要なのは脳ネットワークである。
人間の脳は、放っておくと「自己物語」を始める。
過去を悔やむ。
未来を怖れる。
自分を責める。
これには、自己参照や反芻に関わるネットワークが関係すると考えられている。
坐禅や瞑想は、これらを単純に止めるのではない。
注意を戻す。
気づき直す。
また戻す。
その繰り返しである。
莫妄想とは、
「無思考」
ではなく、
妄想に住み着かない技術
なのかもしれない。
「無心」は空白ではない
禅で誤解されやすいのはここである。
無心とは、ぼんやりではない。
眠ることでもない。
むしろ、
覚醒を保ちながら、不要な自己没入を減らした状態
に近い。
現代風に言えば、
relaxed alertness。
覚醒した休息。
平井富雄が脳波から見たものを、現在の脳科学は少し違う言葉で説明し始めている。
坐禅は古くて新しい実践
坐禅で病気が治る、と言うつもりはない。
万能薬でもない。
しかし、
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不安で頭がいっぱいの人
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反芻が止まらない人
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緊張が抜けない人
-
常に「次」を考えて疲れている人
には、一つの練習になる可能性はある。
莫妄想。
考えるな、ではない。
考えに連れ去られるな。
禅が昔から言っていたことを、脳科学は少しずつ追いかけているように見える。
